2022

02.17

INTERVIEW

ポスターとの出会い / 青木克憲

ポスターを認識した最初の記憶、若い頃に影響を受けた作品、自身がポスターと対峙したエピソードまで、「ポスターとの出会い」をテーマに、今回“POSTERS”に出品するグラフィックデザイナーの皆さんにお話を聞きました。

学生の頃、銀座にあった仲條正義さんの事務所でアルバイトをしていました。当初はコピー機もパソコンもなくクイックという機械で印画紙にロゴを反転して、それを修正して、また反転してロゴの形を整えていくという作業をされていました。僕ははじめ、建築や空間に興味がありましたが、予備校で平面構成を褒められたことで、あっさりとグラフィック(平面)に転換。しかしグラフィックデザインやイラストレーションやファインアートなどの区別もつかず、あれこれと目移りしてた時に仲條さんに出会いました。そこでロゴなどを制作されている流れを拝見し衝撃を受けました。

仲條事務所はビルの3階にあって1階の画材屋さんを通り抜けないと出入りできないようになっていました。事務所には鍵はかかってなくて画材屋さん方々が門番の役割。顔を知られていないと上がっていけません。仲條さんはだいたい午後遅めに来て朝まで作業されることも多かったと思います。仲條事務所のデザイナーをされていた林修三さんは11時ぐらいにくるので僕もその時間にいって作業を手伝ったり、一緒に昼飯をとりながらグラフィックデザイン業界のことを教えてもらっていました。

その頃、仲條さんが作られていたのが資生堂の花椿の特集ページ用のポスターでした。「ブルー・マリン」という特集タイトルで、場末の海の小屋に貼ってあるようなイメージを演出する小道具のポスター。ある日、事務所に行くと貼ってあって、文字のデザインやレイアウトがざっくりと構成されているのが単純で綺麗で魅力的だなと印象に残ったことを覚えています。青一色のシルク印刷も面白いなと思いました。2013年に@btf(ウチの事務所)で仲條さんのポスター展を開催させてもらった際に購入し、今は事務所の壁に飾って毎日、眺めています。

資生堂「花椿」1988年6月号 特集ページ「ブルー・マリン」 AD 仲條正義
「仲條の前半分」展 2013年1月11日~1月27 日 @btf(バタフライ・ストロークの展示スペース)

その後、僕はサン・アドに入社。葛西薫さんとは学生時代にバドミントンをする仲で一緒にチームを作って活動していました。サン・アドに入って葛西さんのアシスタントをする機会は左程ありませんでしたが、仕事は忙しく、その中で沢山の広告の仕事を間近で観れたことは良い体験でした。

入社して数年後、ようやくパソコンが数台デザイン部に入ってきて、Macで文字組みをしたり、書体のニュアンスを引っぱってロゴやマークへ展開するようなこともできるようになっていきました。搭載されている書体は限られていて、オーソドックスなものと逆に海外のデザイナーが開発した目新しい書体があり全部で数十個。その中から「エミグレのトリプレックスライト」という書体を選び自分が関わる仕事には必ず1 案は、この選んだ書体を文字組みに入れ込んだりロゴやマークにして展開してみるということをやっていきました。その結果、hiromichi nakanoのロゴマークなどの制作につながり数々の賞をいただきました。この書体を色々と組み合わせてデザインしたものが認められたことで、自信が持てるようになりました。そもそも仲條さんの仕事を観てデザイナーを志したので、ロゴやマークに魅力を感じ自分なりに打ち込めたことは自然な流れだったのだと思います。

hiromichi nakano  ロゴマーク1993- hiromichi nakano

広告ではアートディレクターとして、オカモトのベネトンコンドームやラフォーレグランバザールなど企画を発想して定着させることを学びました。谷田一郎さんと一緒にやったラフォーレの広告はMacで3DCGのポスターやムービーを作りました。当時、3DCGが珍しいわけではなかったのですが、一年半ぐらいの間、パソコンで作ったと言うと「凄いね」って言われる時代。1996年の「バザールファイター」は流行していたゲームの「バーチャファイター」から発想した企画。パソコンを10台借りてきて、分割してレンダリングしても一晩かけても終わらない。今では信じられないような不自由な状態でしたが、当時のパソコンを駆使して新しい面白い表現を貪欲に探していた時代でしたね。



ラフォーレグランバサール ポスター1996 ラフォーレ原宿
ラフォーレ スプリングフェア ポスター1996 ラフォーレ原宿
ベネトンコンドーム ポスター1994 オカモト

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